中性のグラフェンでは、温度0で下側のバンドが埋まり、上側は空いている。両者の境目であるフェルミエネルギーは、KとK′の接点にある。わずかなエネルギーで空いた状態へ移れるのは、この接点の近くの電子だ。
最近接の三つの原子との結びつきだけを残した強結合近似では、二本のバンドは次の形だった。$t>0$ は隣り合う軌道のホッピングの大きさで、$f$ は三方向の位相因子の和だ。
Kでは三つの寄与が打ち消し合い、上下のエネルギーがともに0になる。図でその近くを拡大すると、接点から伸びるバンドが直線に近づいていく。
§01で見たのは、Γ→Kの方向に切ったバンドの断面だった。今度は、波数空間の平面内で、Kからさまざまな向きへずれる場合を考えよう。Kからのずれを $\mathbf q$ と書けば、Γから測った波数 $\mathbf k$ は、
Γから注目するKへ向かう方向を $+q_x$、そこから波数平面内で反時計回りに90°回した方向を $+q_y$ とする。$q_x,q_y$ は、Kからのずれをこの二方向に分けた成分だ。§01の断面は $q_y=0$ に当たり、$\mathbf q=0$ が接点そのものになる。
Kから少し動くと、三つの寄与はぴったりとは打ち消し合わなくなる。残る大きさが を決めるので、まずはその和を計算しよう。$\boldsymbol\delta_1,\boldsymbol\delta_2,\boldsymbol\delta_3$ は、Aから三つの隣のBへ向かう結合ベクトルだ。
を代入し、指数をKでの位相と、そこからの変化に分ける。
ここではKのごく近くに限り、ずれ $\mathbf q$ を十分小さく取る。すると位相の変化 $\mathbf q\cdot\boldsymbol\delta_j$ も小さいので、$e^{ix}=1+ix+\cdots$ の一次までを残す一次近似を使おう。
それぞれに入れ、$\mathbf q$ を含まない部分と含む部分を分けよう。
最初の和はKでの打ち消しそのものなので0になる。残るのは、三つの寄与がそれぞれどれだけ変わったかの和だ。
成分の計算には、幾何と強結合近似のページと同じ座標の取り方を使おう。
まず、Kでの位相を三つとも求める。
次に、ずれ $\mathbf q$ による位相の変化を書く。
とをに入れると、
$q_x$ の項を集める。二つの指数の差は $2i\sin(2\pi/3)$ なので、
$q_y$ の項には、三つの結合がすべて入る。今度は指数の和を $2\cos(2\pi/3)$ にまとめる。
とを合わせれば、
Γ→Kに沿う成分 $q_x$ は実部に、それと直角の成分 $q_y$ は虚部に現れ、係数の大きさはどちらも $3a/2$ だ。複素平面で直角に並ぶ二成分の長さを取ると、
同じ距離だけKから離れれば、どの向きでも同じ大きさになる。三方向の結合から、一次近似ではこの方向によらない形が出てきた。
をへ戻そう。
まず、最初の図と同じ $q_y=0$ の断面を見よう。上側のエネルギーは $(3ta/2)|q_x|$ だ。Kからこの断面に沿って離れると、どちら向きでも、Kからの距離に比例して高くなる。これが、Kを底とするV字形になる理由だ。下側は、そのV字を上下に反転した形になる。
さらに、Kから同じ距離にある点は、どの向きでも同じエネルギーを持つ。V字の断面をKの周りに回せば、上下二つの円錐になる。これがディラックコーンだ。以下では、Kの近くをこの一次近似で扱う。
Γを挟んで反対側にあるK′の近くにも、同じ円錐ができる。波数を $\mathbf k$ から $-\mathbf k$ に反転すると、三つの位相因子はそれぞれ複素共役になる。和 $f$ の虚部の符号は反転するが、その長さもエネルギーも変わらない。
Kに戻り、そこから波数をずらす向きによって、A・Bの係数の位相がどう変わるかを見よう。その関係は、強結合近似で得た次の二式に残っている。$u_A,u_B$ は、各原子の位置で決まる位相因子を取り出した後の、A・Bの $p_z$ 軌道の係数だ。
を入れると、
上側のバンドで、まずΓ→KをKの外側へ延長する向きに波数をずらそう。これが $+q_x$ 方向だ。$q_x=q>0,\ q_y=0$ なら $E=(3ta/2)q$ なので、は
A・Bの係数は大きさも位相もそろっている。では、$|\mathbf q|$ を変えずに、ずらす向きを反時計回りに90°回したらどうなるか。今度は $q_x=0,\ q_y=q>0$。エネルギーは同じでも、右辺に $-i$ が入る。
$i=e^{i\pi/2}$ を掛けると位相は $\pi/2$ 進む。つまり今度は、Bの係数がAより四分の一周期だけ位相の進んだ組み合わせになる。同じエネルギーでも、A・Bの位相関係には違いが残った。
ほかの向きもまとめて表そう。Γから注目するKへ向かい、そのまま外側へ進む向きを基準にする。波数平面内で、この基準から $\mathbf q$ まで反時計回りに測る角度を $\theta$ とする。
にを入れ、$u_B$ を左辺に取り出す。接点から離れた $|\mathbf q|>0$ の点なら、に含まれる $|\mathbf q|$ と分母の $|\mathbf q|$ が消える。
上側のバンドなら $+$ を選ぶので、Bの係数はAに $e^{i\theta}$ を掛けたものになる。大きさを変えず、位相を $\theta$ だけ進める掛け算だ。下側ではさらに $-1=e^{i\pi}$ が掛かり、位相差が半周期増える。この一次近似では、A・Bの係数の比は、Kからのずれ $\mathbf q$ の向きで決まる。その向きを固定して $|\mathbf q|$ を変えると、エネルギーは変わるが、A・Bの係数の比は変わらない。
Γから注目する角へ向かう方向を基準にすれば、は六角形の三つのKに共通する。K′でもΓ→K′を基準に取ると、から $u_B=\pm e^{-i\theta}u_A$ となる。基準から $\mathbf q$ を反時計回りに回すと、Bの位相はKでは進み、K′では遅れる。
電子が進む様子を、電子を見つけやすい場所の移動として追ってみよう。近い波数の状態を重ねると、強め合う場所と弱め合う場所ができる。まず二つの状態を重ね、その確率密度の山がどう動くかを計算しよう。
まず上側のバンドで、Γ→Kを外側へ延長する向きに、互いに近い二つの波数を選ぼう。この基準方向に沿う成分は $K_x+q_1,K_x+q_2$($q_1,q_2>0$)、直角方向の成分はともに0とする。時間を $\tau$ と書く。エネルギー $E_j$ の状態は時間とともに $e^{-iE_j\tau/\hbar}$ の位相を持つので、$\omega_j=E_j/\hbar$ と置けば、位相は $(K_x+q_j)x-\omega_j\tau$ になる。
と、大きさ1の位相因子 $e^{iK_xx}$ は二つの状態で共通だ。これらを取り出し、Kからのずれで変わる部分を見よう。二つを同じ大きさで重ねると、次の和 $F$ になる。
原子ごとの細かな起伏をならした確率密度は、$|F|^2$ に比例する。複素共役を掛けて計算すると、
密度の山は、cosの中身が $2\pi n$ になる場所だ。同じ山を追いかけるには、整数 $n$ を固定すればよい。
時間に掛かる係数 $\delta\omega/\delta q$ が山の移動速度になる。二つの波数を近づけると、この比は分散曲線の傾きに近づく。
これが群速度だ。二つの波では山が繰り返し並ぶが、多くの近い波数を重ねれば、一つの場所にまとまった波束を作れる。その波束の移動も、この傾きで決まる。
円錐の上側へ戻ろう。いま選んだ $+q_x$ 方向では、は $E=(3ta/2)q$ だ。その傾き $3ta/2$ を $\hbar$ で割ると、波束の速さになる。この速さを $v_F$ と書く。
Kからの距離を変えても直線の傾きは変わらず、エネルギーが違っても速さは同じになる。フェルミ速度は、フェルミエネルギーでの群速度を指す。中性のグラフェンではフェルミエネルギーが接点にあるので、接点へ近づくときの速さ $v_F$ をそう呼んでいる。
例えば $t=2.7\,\mathrm{eV}$、$a=0.142\,\mathrm{nm}$ をに入れると、
波数 $\mathbf k$ の状態は、$\hbar\mathbf k$ の結晶運動量を持つ。Kからのに対応する結晶運動量のずれは、$\mathbf p=\hbar\mathbf q$ となる。質量 $m$ の自由粒子のように $E=p^2/(2m)$ という放物線なら、は $dE/dp=p/m$ なので、エネルギーが大きいほど速くなる。上側の円錐では $E_+=v_Fp$ だから、高さを変えても傾きは変わらず、速さは $v_F$ のままになる。下の図で、二つの形を比べてみよう。
円錐のを微分すると、二次元では次の速度になる。$\hat{\mathbf q}=\mathbf q/|\mathbf q|$ は $\mathbf q$ の向きを表す長さ1のベクトルだ。
上側では $\mathbf q$ の向き、下側では逆向きに動き、速さはどちらも $v_F$になる。Kの周りでは、も、上側では $\theta$、下側では $\theta+\pi$ だった。Γ→Kを基準に測ると、位相差は速度の向きの角度と一致する。
エネルギーが増えても速さが変わらない。この性質は、真空中の光にもある。光子のエネルギーと運動量の関係は $E=cp$ だ。いま求めたも、光速 $c$ を $v_F$ に置き換えた同じ形になっている。Kの近くでは、電子が結晶中で質量のない粒子のように振る舞うわけだ。
円錐を見れば、高さから電子のエネルギーを、斜面の傾きから速度を読める。三つの隣との結びつきから出てきた形に、電子の動き方まで表れている。
円錐上の二つの状態の高さを比べれば、電子がその間を移るときに、どれだけエネルギーを受け取るか、あるいは渡すかも分かる。グラフェンのラマン散乱やフォノン放出で起こる、光や格子振動とのエネルギーのやり取りにも、この円錐が関わっている。